怪盗ねこぴー 秀吉なぜ幕府開く決断なかったのか

怪盗ねこぴー 秀吉なぜ幕府開く決断なかったのか

織田信長は、仮に日本を統一したとしても、幕府は開かなかったでしょう。家康なぜ幕府開く決断たのか 逆信長 秀吉なぜ幕府開く決断なかったのか
幕府開く良い点 悪い点知れぞれ 家康も悩んだ「後継者」と「完全引退」。約年続く徳川幕府の礎を築いた家康も。最後まで心配事が絶えなかったよう
だ。いつ完全引退を側近の本多正信は豊臣秀吉の養子だった秀康を。井伊直政
は関ケ原合戦で奮闘した女婿の忠吉を推した。大本命の秀忠は秀吉はなぜ征夷大将軍ではなく。古くは源頼朝から江戸時代の徳川幕府の将軍たちに至るまで。政権を預かる武士
は朝廷から「征夷大将軍」に任じられるのが常でした。それなのになぜ。
それほどまでに聚楽第は壊されなければならなかったのでしょうか。「大坂の陣」で徳川家康が攻めた理由に迫る。豊臣秀吉が寵愛した息子?秀頼ひでよりは。母の淀殿と自刃。あれほどの
栄華を誇ったどうして。豊臣一族は滅びなければならなかったのか。偶然か
必然か。徳川家康が決断した真逆の「世襲制」 豊臣秀頼の将来その年後。
慶長年に征夷大将軍となり。江戸幕府を開く。秀吉の想定

なぜ秀吉は幕府を開かなかったのか。ホントは「幕府」という言葉は戦国時代には一般には全く使われていなかったん
ですけど江戸時代の学者が使っていた学術用語が。幕末になって一気に一般に
広まった。まあ。ここでは「歴史用語」として。「武家政権怪盗ねこぴー。なぜ。幕府ばくふを開かなかったのか?信長と秀吉ひでよしとでは理由
はまったくことなります。 信長の場合このうちの。征夷大将軍せいいたい
しょうぐんをもらえば。信長は幕府ばくふを開くことができます。 しかし

織田信長は、仮に日本を統一したとしても、幕府は開かなかったでしょう。「幕府」というのは征夷大将軍を頂点とする御恩と奉公による封建制、つまり大名たちの領地に自治権を認める、地方分権制度のことです。それは、信長の望む体制ではありません。戦乱の世を統一した英雄は、必ず強固な自分の意志で国家を纏め上げようとする、中央集権国家を志向します。そのような体制を作り上げるためには、強烈なカリスマ性による、かなり強引な施策が必要です。やがて息の詰まった大名たちが、もっと管理の緩い、自治権のある体制を求めるようになります。従って、そのような「乱世を鎮めて統一した政権」はたいてい、カリスマ本人が死んだ途端に崩壊し、あとに多少いい加減な仕組みの政権ができます。この「いいかげん政権」のトップは御神輿に乗せられた存在で、さほどのカリスマ性は必要ないので、この政権は代替わりできて長続きします。これは歴史の鉄板法則です。秦の始皇帝ー漢の劉邦隋の煬帝ー唐の李淵天智天皇ー天武天皇平清盛ー源頼朝後醍醐天皇ー足利尊氏但し織田信長の場合、「息の詰まった家臣」による叛乱が早くきて、本能寺で暗殺されましたので、そのあとを豊臣秀吉が引き継ぎ、統一事業を完成させました。つまり、信長?秀吉でワンセットです。秀吉も将軍にはなりませんでした。そのかわり関白になります。関白というのは朝廷のトップで、朝廷というのは原理的に天皇中心の中央集権の政府です。秀吉は中央集権的な政府を志向していたのは間違いありません。いわば秀吉は、「将軍」とか「幕府」とかいう古臭い入れ物には収めきれない「いまだかつてなかった斬新な統治体制」を目指していたんです。それに反発した大名たちが、カリスマ突飛な天才秀吉の死後に担いだのが凡人常識人徳川家康であり、関が原の戦いであり、その結果できたのが、古きよき封建制を復活させてくれる幕府システムです。「乱世を統一するカリスマ」のつぎに「長期政権を作り上げる御神輿」がくる、これは必至なんです。強力に国を統一したカリスマ政権は長続きしない、カリスマの死とともに消える、これは宿命みたいなもので、仕方ないことです。織田政権ができたとしても、カリスマ信長一代限りです。幕府自体は存在してません。明治以降に征夷大将軍の政権を幕府と呼んだだけです。当事者は全く関係のない話です。幕府も糞もありません。実権持てば天下人。最近幕府=武家政権と定義を勝手に変えてるので、平、織田、豊臣幕府でも良い理屈です。江戸幕府も1600年家康が土地分配権行使した年でも良い理屈です。信長はずっと室町幕府の再興を目指してたんですよ。でも義昭が頼りないままで、んなら俺が…と思っていた矢先に本能寺。異論はあると思いますが、信長はまだ天下統一してたとは思えないし、将軍もまだ義昭が居座ってた。幕府を開く=征夷大将軍に任命される、という定義だとしたら信長はその条件を満たしてなく、本人もそうした自覚があったと思います更に言えば、この時代は将軍とは源氏の名門足利家の家職だと思われていたし、源氏とはつながりの薄そうな織田家としては縁遠い地位だと思っていた可能性もあります源氏どころか武家かどうかも疑わしい出自の秀吉に至っては、征夷大将軍よりもむしろ関白などの朝廷官職の方が魅力的に思えたと思います。またまがりなりにも地方領主の家に生まれ、幕府の統治機構を知っていた信長や家康と違い、秀吉は幕府というものを肌で感じられず、それに拘らず独自の政権形式を選んだのだと思います。家康は前述の通り地方領主の出身で、しかも今川氏という堂々たる守護大名の下にいた点が信長、秀吉と違う点です。東国はまだ室町幕府の体制が色濃く残っており、信長、秀吉より東国に本拠地を持っていた家康には幕府統治のイメージがし易かったはずです。家康が松平一族と室町幕府の重臣を旗本や高家として優遇した点からもそれは見て取れます。基本的に朝廷の官位官職や受領名は一代限りなんですよ。藤原氏の様にほぼ世襲的に関白や摂政つまりは太政大臣に成るケースも在るけど、朝廷内で一応推挙される手続きが必要。幕府の場合は、鎌倉幕府は三代で血筋が絶えちゃったから世襲とは云い難い面はあるけど、室町も江戸も世襲でしょ。朝廷は形式上征夷大将軍に任命するけど、決定権は幕府にある。江戸幕府以前の二つは朝廷天皇の名の下に倒されたから、江戸幕府では公家諸法度などで制限を設けて官位官職は勝手に授けられなくなった官職は実質無意味だから廃止。江戸幕府が長く続いた理由は他にもあるけど、制度設計上は倒幕され難い。秀吉は足利幕府の没落を見てたから公家を選んだんじゃないかな?家康はどちらも見れたからやっぱ武家は幕府だわって思ったのかもね信長は天下統一事業の途上にあり、政権の安定を図る前の段階で死んだ。だから将来も幕府を開かないという結論は出せない。秀吉は、足利義昭に養子の提案を蹴られ、幕府開闢路線を捨てた。そして五大老五奉行体制という、いかにも不安定な状態で死んだ。家康は、信長、秀吉の例を見ていたこともあって、何より政権を将来に至るまで安定的に運営できるように配慮した。だから幕府を開いた。幕府を開く決断をしてはいないと思うけど。豊臣家から権力を奪い、権力を行使するためのお墨付きとして、将軍という立場を欲しただけで、幕府を開こうってな考えや思考は、微塵もなかったと思います。将軍となって権力を行使しよう、政権の権威を担保しようとは思ったでしょうが。

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